トップ豆知識
『鍼灸医術の門』 柳谷素霊著
 第十節 鍼灸治療方法の種々相(2/7)

(一)鍼刺法の種々相

 霊枢官鍼扁に「針大にして病小なれぱ気瀉すること甚だしくして却つて害を為す、病大にして針小なれぱ、針カ病に至らずして病気務瀉せざるなり、病骨髓にあるものは長針を以つて刺し、皮膚にあるものは短針を以つて之を刺すべし」又「病に浮沈あり病浅くして針深けれぱ良肉を破り病深くして針浅ければ病気瀉せず其理を過てば邪是に従つて益す、五臓を動かして後大病となる」とある。こゝに九鍼の法を立てたといふ、もつともなことである。が現代の鍼を行ふものを見るに、いかなる病にも大鍼や長鍼を振り廻して、得意然たる鍼医がゐる。然も相当流行させてゐるのがある。そうかといふて、短鍼のみより扱ひ得ず、又は大鍼長鍼を知らぬ鍼医さえあるのはどつちも困りものである、技術としてはいづれも精微を有するもであるから方とも習ひ覚えて置かねぱならないものである。(稽古法は後述する)然し、とかく世間は太い鍼や、長い鍼を刺すものの方が短い鍼を刺すものより技術長ぜりと考へ勝なところに一方は繁栄し、他方はあまりはやらぬといふ微苦笑ものが行はれてゐるのが実情なのだ。
 素問、離合真邪論に「男は陽で気が浅く針も亦浅く天分に刺し、女は陰で気が沈むから鍼も深く地の分に刺すべし、又男女朝晩によつて気の所在異るにより気の所在を考へて鍼を刺さねぱならぬ」とか。
 霊枢、根結扁に「貴人は肌肉軟かにして身体弱し、故に鍼を軽く、やわらかに刺し、賎者は筋骨強く皮膚厚き故に鍼深くして留むべし」とある。
 霊枢、逆順肥痩扁に「六十七十以後は気弱く下虚し、精血へるが故に浅く刺して疾く針を発し、小児は本より肉脆にして血少く気弱し、是に刺すには毛を抜くやうにし、日に再び刺せど、深く刺すべからず」と又「肥たる人は血気充満し、肌膚堅固なり、若邪の加ることあらば此を刺すに深くして久しく留む、痩せたる人は皮肉薄く血気清滑にして気血脱し易し、故に浅くして疾く鍼を退くべし」といふてゐる。
 霊枢、根結扁に「気の滑なる者は行い易きが故に浅く刺して疾く鍼を出すべし、気濇なる者は気の行ること遅きが故にゆるく刺して久しく留むべし」とし。
 霊枢、官鍼扁に「針を三本も五本も刺して置き、一方より一本宛ぬくことあり、多くは寒邪の甚だしく沈んであるに用ふることあり好んでこれを用ふるべからず」とあるが、このやうな流儀即ち留置鍼(置鍼)をいかなる病人にも施して他意なき鍼医も全国には相当多いのである。
 鍼灸要法指南にいふ「諸病いろいろありと雖も、其経の病む所を考へて井滎兪経合の要穴に唯一鍼にて補瀉迎随するあり、若くは二針三針刺すのみにて、満身に針すことを喜まざるあり、これ一流なり」と記してゐるが、これこそ、鍼医の上品といふべきであると、同時に満身に鍼していたづらに病人に痛苦を与へ気血を逆せしめる鍼医もゐる。
 霊枢、終始扁に「急病は邪気入ること浅きが故に数々刺して浅く内れ早く効を求むべし、久病は病根篤きが故に深く刺して久しく留むべし、速効を求れぱ却つて禍を得るなり」とある、只一律一遍の鍼の運用のみを心得てゐるものゝ頂門の一鍼であらう。又同扁に云ふ「房事を行つて即ち刺すことなかれ、針刺して房事することなかれ、酔ふて刺すことなかれ、刺して酔ふことなかれ、怒つて刺すことなかれ、刺して怒るととなかれ、疲れて刺すことなかれ、刺して疲るゝことなかれ、飽食して刺すことなかれ、刺して飽食することなかれ、饑へて刺すことなかれ、渇して刺すことなかれ、大いに驚て刺すことなかれ、大いに恐れて刺すことなかれ、車馬に乗つて来るものは暫く休んで之を刺し、歩行して来るものは食する程の間息んで之を刺すべし」とある。今の鍼医かゝることを考慮に入れずに刺すは、自分の鍼のキキメを滅殺することに気付かぬが為であらう。
 鍼灸要法に云ふ「假令は腹を痛み手もさわる事叶はざる時は三里、照海等にて是を引きやうやく柔らぎたる時腹に刺すべし、兵法に曰く鋭気を避けて其の脱気を討つ」と鍼法の秘語、考ふべき言である。
 神応経、補訣直説扁に「共の実邪を瀉したるぱかりにて虚を補はざれば又本え復するものである。七瀉三補、三瀉七補、その病によつて異る」といふてゐる。一概の鍼刺は鍼立てでこそあれ、鍼医とは云はれない。
 素問、邪真論に「邪は風寒暑湿等の外邪也、絡より経に入つて血脉の中に舎る、正は真気也、正気 邪気は水波の如し、血気本静かにして邪是を犯す、水本静にして風これを犯す、故に浪波の起るが如くにして邪気の至ること、よく行きて数々変ず、時に至り、時に去つて常の所なし、邪の微なる時に治せざれば、後盛にして治し難し、虚は気体虚弱なる者なり、たとえ其脉大なれど必ず虚なり。実は腠理密にして筋骨壮に元気つよく生れつきたるなり(これは実邪ではない)」
 又、内経の処々に「実を実(補)する勿れ、虚を虚(瀉)すること勿れ」とある。これ等によつて鍼の操作と刺戟との関係に示唆深きものを与へてゐる。
 鍼灸要法にいふ「病に標・本あり、先づ得るを本とし、後に得るを標とす、病は本を治すれぱ標をのづから愈ゆ。内経にも病を治す事に其本を求むとある。然れ共、もし急証あるの時はたとへ本病ありとも、其の急なる所の標を治し、而して其の本を治すべし、是を權道といふ、大抵は先づ本を治するを医治の肝要とす」といふ、証によつて標本を決し病勢によつて『標治法』『本治法』 の先後、兼治を考へるのが鍼医の本領でなければならぬ、そればかりではない、素間、上古天真論にいふやうに「名医は神気を冥々に察して疾の未だ生ぜざる所を見て治す、故に用小くして功多し、庸医は病と成るを見て治す、下工は其の己に衰るを見て治せんとす、渇して井をほるに似たり」とある通り、この境地までの道を実は見事に古人はつけてゐてくれてあるのである。
 世の流行家は大鍼、長鍼、留鍼(置鍼)折鍼などで人気を呼んでゐる。が、これは一律一辺に施すべきものでないことは上述の通りである。お灸にしてもこういふことが云はれる、打膿灸、焦灼灸、さては、生薑灸、蒜灸、味噌灸、墨灸、漆灸、紅灸、油灸、婦人鍼灸家の人参灸となかなか、にぎやかなのがある。これとても、どの病人に対しても同一方法で行つてよいといふ ものではない、その特微とするところは勿論あるが、病は万態である。病に通合した方法で行ふべきが正当なる鍼灸の運用である。が、とかく世人は新奇を好む、目新しいもの、変つてゐるもの、奇なるものゝ流行するわけがこゝにある。鍼灸を商売と考へる人はこの点にも思慮をめぐらすがよい、が医は仁術であることを忘れずに、簡単に灸のことにつき次に紹介しやう。

<<前へ  |  目次  |  次へ>>